こんにちは。@すぷりんぐです。
久々の単体記事。いや、何か書こうと思ってたんですけどね? 季節更新でまとめるくらいしか感想を書けてませんでした😭
今回は力を入れて書きたいと思います。
さて、今回の感想は『TrymenT 今を変えたいと願うあなたへ』
AlphA編を終えてどう感想を書こうかな……と思って色々考えていました。
まず前作、『Re:LieF 親愛なるあなたへ』をやっていないんですね。つまり前作から引き継いだキャラクターとは初対面です。
前作をプレイしているとトライメント計画の伏線周りが理解できたりなんなら解決してるらしいのですが、そこはあんまり情報入れずにOmegA編で楽しもうと思います。
なので、司やアイ、ユウが関わる感想はとりあえず書かないほうがいいだろう(というより書けない)と判断しました。
ゲームのグラフィックの綺麗さは他方のブログでも取り扱っていましたが、そんなの見りゃ(激うまギャグ)分かんだよと。
特別感想はありません。
となれば翔やあやめ周りの今作の話メインで感想を書くのが一番だと判断しました。
様々なところで言われている通り、社会人になるとキャラクターの心情に共感できる場面が多く存在します。そういうどこが共感できたと自分なりの反省を込めて、今回の記事を書こうと決めました。
このゲームを通して思ったことを個人の感想として書くので、しばしばクリエイターさんの言ってることと違うとか、ゲームの中で言及されている部分の読み飛ばしがあるかもしれませんが、ご容赦くださいm(_ _)m
そして気に入っていただければ最後まで読んでいだだけると幸いです。
以下ネタバレ感想。
1 ArtificiaL IntelligencE
「人工知能──そう呼ばれると、まるで人が、知能そのものを作ったように思えますが」
「実際は、司の言った通り、さまざまなものを『学習させて』知能の『ように見える』ものが観測されるようになった。これを人工知能と呼んでいるんですよ」
「つまりボトムアップ式に組み立てていくのではなく、膨大な情報を与えた結果として現れた『なにか』。現在の人工知能は、そういうものなんです」
「そうしてやがて、人工知能はデータを『観測』し、『結果』を推定し、現実との『誤差』から世界を学習していく」
「つまり彼らは、試行錯誤の連続なんですよ。遥か昔、盤上のゼロサムゲームで彼らが人類を打ち破ってから続く伝統芸です」
「だから、当然彼らが間違うこともあります」
「ただ、そこから彼らは学び続けているんです。次は間違えないようにと、次はもっといい結果になるようにと、パラメータの変更とプロセスの修正を繰り返して」
もも
僕の中で人工知能というのは没個性の象徴で、しかしながらこの現代社会において従順で正確な作業を求められるならば人工知能、あるいはコンピューターより適したものはないと思います。
例えばの話、僕がお仕事の作業内でも結構機械が自動的にやってくれたらな〜と思うことはしばしばあります。書類の管理だとか、物の発注とか。機械に代替してほしい仕事ってのはいくつかあるわけです。
しかし、もし本当に仕事が機械で代替できるようになれば。ありきたりに言われている通り、コストカットのために職を失ってしまう人が出てきてしまいます。
このTrymenTの劇中でもそのような描写がありましたね。
この状況を打破するには、対極にある『個性』を生み出さなければなりません。表現者やデザイナー、つまりは人が人を想う仕事。
個性の答えはいくつか存在するものだと思いますが、このゲームの内容に沿うならばこれが最も近いのかなと。
とはいえそう簡単に『個性』というものは作れるものでしょうか。
まだまだ若い僕らは時に生き急いでしまうわけです。自分には何か特別な『役割』があったり、時に運命的な才能があるんじゃないかと。
でもやっぱりそんなものは存在しないんじゃないかと思います。才能持った人ならばともかく、どこまでも平凡な僕らにはまず確実に。現実に生きる僕らは漫画やゲームの中のキャラクターではないのですから。
僕自身も『個性』というのは、やはり『環境』によって形成されるものだと考えています。
どんなことを学び、誰と出会い、何を感じたか。
子供の感性から感じること。思春期の感性から感じること。社会人として生きて感じること。10年前の僕と現在の僕とでは感じ方や考え方は変化しています。それはよっぽどの事情がない限り、基本僕と同じように皆様も『成長』しているのでしょう。
そういう地道な変化の積み重ねによって『個性』、あるいは『個人』が形成されるものだと僕は考えます。
人によって早い遅いの差はあれど、20年弱生きた程度ではほとんどの人は『個性』を生み出すことは難しいでしょう。僕もそんな平凡な人間の1人です。
AIには『役割』が。人間には『個性』が。
仮に時代が進み、本当に人工知能が人間の仕事を代替する時代が来るのかもしれません。
『個性』のある人間が才能を活かし、AIがそれぞれの『役割』で仕事を最適化する。それは社会というコミュニティの成熟を現した、完成した1枚の絵画のように美しく見えるのですが。でもその美しい社会の中に僕はいないんだろうなと考えもしたりして。
『役割』がなければ『個性』もない。
じゃあ僕は一体誰なんだろう?
2 MasqueradE
「これからは、音楽だけに集中するわけにもいかない。世間からはもう社会人として見られる」
「あやめは音楽以外に疎かったが……、お前は自分に甘いわけではないのは知っている」
「だからこれをまとめておいた。社会に出る時、必ず突き当たる問題の対処方法だ」
「こんなに、いっぱい……」
顔を上げて、父親を見つめる。
「俺には、これくらいしかしてやれない」
大人になるのはいつから?
体が成長した時。心が成長した時。それとも働き始めた時?
または、あるいは。
意図せず独り立ちをしなければならない時。
もしくは、
お酒が飲めるようになった時。
かわいい。
まあ最後のは冗談だとして、TrymenTの通して上2つのくだりが一番強く印象に残っている場面でした。
僕が社会人になってから、それこそ確定申告をやらないといけなかったり、あとは税金過払いですよ〜って手紙が届いたり。それこそ最近は給付金の申請もありました。やり方はそこまで難しくないんですけどね。書類用意して書くとこ書かないといけないのが面倒で面倒で……
ともかくとして、今までやらなかった自分自身の手間が社会人になってから増えました。それは誰かから教えてもらうわけでなければ、社会に出る前に自分から両親、あるいは知識のある誰かに聞くということも無かったです。想像もつかなかったですからね。恥ずかしい話、書類関係はほぼほぼ父親に頼っていたと思います。
つまり大人になるということは、誰かの保護から離れるということになります。当たり前なんですけどね。
保護から離れたら誰かが被ってきた何かを自分自身で被らなければなりません。
それは種類様々色々あるけれど、僕が強く思うのは『責任』を被らなければなりません。説教じゃないですよ。僕達は皆大人になると社会で生きていく『責任』を負うんです。
責任の形や定義は人それぞれあると思うけれど、このゲームに沿って形を作るならば、表現者である翔やあやめにとってこの責任は重いものだったのかなと思います。
「喜羽くんは、マラソンが好きなんだっけ」
歩き出した翔が聞いた。
「嫌いになったことある?」
自分の顎をさすりながら、顔を上に向けた。
「いや……無いな」
「マラソンは俺にとって趣味だからな」
「もっとうまく走りたいと思うことはあっても、嫌いになったことはない」
「……そっか」
喜羽、翔
「いつからだろう、音楽を自由に演奏できなくなってしまったのは」
「できない。無駄な演奏はできない。自由な演奏はできない。好きなように演奏することは、もうできない」
あやめ
昔はあんなに好きだったのに、いつしか向き合うことさえ嫌になってしまったのは何故だろう。
ゲーム中、翔は憧れの漫画家になった。
翔周辺の事情はこのゲーム内で掘り下げられていない……と思います。あるは過去作で掘り下げられているのか分からないんですけど、自分の想像内で考えるならば好きなことを仕事にするって考えものなのかなと思います。
好きなことで生きていくのは本当に難しいです。いくら漫画を描くことが好きでそれを仕事にできたとしても、世の中の評価の尺度は『どれだけ売れたか』なんじゃないかと思います。自分の好きなこと、美しいと思うことがいつだって世の中に理解されるとは限りません。抽象的な表現を描いたとしても、読み手は具体的な表現を求めていたり。あるいは、独特すぎる表現は誰にも理解されなかったり。
持っていった作品が編集者によって表現の違うもの(例によっては『売れる作品』)に変えられたりするかもしれません。
そしてあやめ。好きなことが明確に別のものにすり替わっている描写でした。
ゲーム中、あやめの先生は正確な演奏が勝利への道だと説きました。音楽の世界は楽譜に書かれた表現の世界を正確に弾き出すこと。確かあやめも同じようなことを言っていた気がします。
ようは音楽の偉い人は楽譜を正確に演奏する技術を評価していて、その評価こそが次のお仕事に呼び込んでお金が貰えるよと先生は言うわけです。
でもあやめが好むのは『自由な演奏』であって、『正確な演奏』じゃないんですよね。それは誰が読んでもその通りであります。
あやめが音楽の世界を遠ざけたかったのは、『楽譜を正確に弾く実力』を期待されたくなかったからなのでしょう。
自分が自分を生かす責任。他人の期待に応える責任。僕達は責任に押しつぶされずに生きていくことができるだろうか?
責任というのはこのゲームの主軸とはそこまで関係ないのかな……とは思っているのですが。楽しく表現ができなくなる=大人になるということだと僕は感じました。
特に自分が自分を生かす責任という点ですかね。現代社会はシンプルにお金が無ければ生きていけませんから、お仕事をしなければなりません。望んだ仕事ができる人がいれば、そうでない人がいたり。僕は後者なんですけど、自分に合わない仕事というのはやはりどこか窮屈に感じます。
今の仕事はやりたくないけど、自分の望む仕事に転職できるかといえば確証は無いし。じゃあこのまま定年までこの仕事をするのか?と問われれば本当に嫌です。お金を稼がないと生きていけないから仕方なく仕事をする。とても窮屈です。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は生きにくい」
3 いつかたどり着けるその日まで
「きっと、いつかたどり着けるその日まで」
「だからこそ、終わらせる必要がある」
「どうしようもない事実から逃げたかつての私の行き着く先は、死だ」
「生きる意味の感じられない人生。それが嫌なら、表現の本質にたどり着いて探求を終わらせるか、人生を終わらせるしかない」
「終わらせることでしか、新しい人生を歩めない私」
あやめ
世界は未知に溢れている。
私自身が経験したことのないもの、知識として知らないもの。聞いたことのない美しい音楽。見たことのない景色。
そのどれもが至る場所、あるいは至る社会に潜んでいるものですが、そのありとあらゆる全て(何も難しいことではなく、美味しいものを食べる。世界中の絶景を踏破するなど)を感じることはできません。寿命であったり、場所の制約があるからです。
つまり、私という個人は世界(社会)の一部分を切り取った部分しか写し出せないということですね。それが大なり小なりあるわけですけれど、人間の知覚には限界があります。
表現の本質とはなんでしょうか。具体的に僕も読み取れているわけではないし、言葉にするのも難しいんですけど、僕が思う表現の本質とはやはり個人の完成にあると思います。
表現というのは自分の内から出るものを外界に写し出すことであって、自分が今までに感じ、経験したことが混ざりあって、1つの完成された美しい形に現れることが表現だと思います。
こういうノベルゲームだったら、自分の読んできた小説や哲学者の思想、現代社会学。もしかしたら漫画やアニメ、違うノベルゲームからも影響を受けているかもしれません。
何かを表現すること、個人を形成することは、外の世界から影響をダイレクトに受けます。これも結局積み重ねなんじゃないかなと。
反対に人生を終わらせるというのはどういった感情から出てくると思うものなのでしょうか。
必ずしも自分の内にあるものが綺麗に表現できるかと言われれば、もちろん上手く形にならないものもあります。
より美しいものを表現しようとすればするほど、時間や労力、モチベーションが続かなければ完成しません。
表現すること自体が私自身の生きる意味だと説くのならば、それができない私は意味の持たないものであり、存在しないものと同じ……故に、新しい自分を始めるために中途半端な今を終わらせるしかない。
結構難しいですね。曲解しすぎているような気もします……
4 今を変えたいと願うあなたへ
「今の社会の根底を築く資本主義という『仕組み』は、言うなれば弱肉強食という性質を利用した、自然淘汰を目的としています」
「これは本来、生存競争によって社会を成長させ、やがては誰もが納得する一番良い『仕組み』を残すという考え方です」
「なぜなら、人間は最悪な環境下でも生き抜く力を持ち、かつこの淘汰という考え方には、競走という『戦い』が前提にあったからです」
「『戦争』といった視覚的な戦いが無くなっただけで、今も変わらず世界は戦争を続けている」
「世界は戦いによって生まれた傷を、生活保障やアフターケアといった形で埋めようとしている」
「……ですが、本当に必要なのは」
「そもそも、『戦い』や『ケア』が必要にならない環境作りです」
「それを実現したのが、この『トライメント計画』だった」
八馬
最後に、このゲームの純粋な感想を。
すごく気持ち悪い話、このゲームは僕を救ってくれると信じていたわけですよ。
誇張した表現をしましたが、僕が勝手に期待していた内容じゃなくて、裏切られたという話ではなく。
いかに現実にリンクした共感できる内容だったとしても、これはゲームであり虚構なんですね。
傷つかない環境が理想なのは理解できるし、同じ傷を持った人間が同じ環境で成長できれば、それはなによりも僕が求めている、とても現実的な僕自身の救いだと思います。
でも実際、今僕達が生きる現代社会に『トライメント計画』なんてものは存在しないし(僕が知らないだけで近い環境は存在するかもしれませんが)、実現なんてありえない話だと思います。
八馬が言う通り、戦いによって生まれた傷を保障で埋め合わせようとしている今の社会はどこか他人行儀に感じます。
今の環境が窮屈で、自分自身がすり減っていくような感覚。時には消え去りたいとさえ思うこの感情を理解してくれるのは一体誰だろう?
国?社会?保障制度?精神科医?あるいは、先輩。同期。友人、家族。そのどれもが正解だとは世の中の人々は言うけれど、きっと違う。
本当に僕を理解するのは、同じ空の下で同じ傷を抱え日々を生きている名も知らないどこかの誰か。このゲームが説くのと同じです。
メンタルチェックと称した紙切れ1枚で、僕が自分の本心を書けるような環境なら世の中はもっと上手く回っています。
仕事やめたいだの消えたいだの口に出してみようものなら、まるで爆発寸前の風船でも相手しているかのように、彼らは遠くから僕に声をかけるでしょう。
『助けて』と手を伸ばしても誰も掴んではくれないし、誰もいません。
傷つかない環境なんて僕の周りにはなくて、僕が心の底から今を変えたいと願うならば。また別のところを傷つけながら、自分を変えるための1歩を踏み出さなければならないでしょう。
この1歩踏み出すという行為はとても怖いものです。僕の周りには良くも悪くも僕に期待するというか、良い意味で仕事に慣れて自分のものにしていけよという応援を感じることがあれば、どこか歯車としての成長を期待されるように感じることもあります。
前者も後者も今の環境、言わば敷かれたレール上を走ることを期待されているわけですね。
それを仮に隣のレールに飛び越える、あるいは新しいレールを作ろうとするものならば一体どうなるでしょうね。人付き合いが苦手な僕はただでさえ周りの優しさの中に孤独を感じているというのに。より深い孤独へと足を踏み入れてしまうような気がします。
世の中には進んでそれができてしまう人間がいれば、僕みたいに優柔不断で弱い人間はそれができなかったりします。
弱いから強くなりたいと思う。やり方が下手くそでも、どうにか世の中のあらゆることから学び、強くなろうと思ったり、強くなったように錯覚をします。
しかし、最後の最後には自分で自分の背中を押さなければなりません。自分の意思は誰かに委ねられず、自分の行動の責任を最後に自分がとらなければなりません。それがとてつもなく怖いんですけど、そうしなければ弱い僕はいつまでも強くなれないのでしょう。
結局のところ僕は僕以外の他人が僕の人生を決定してくれないと理解していて、素晴らしい思想を鵜呑みにするだけでは本当の意味で僕を強くしてはくれないということです。
このゲームはただの共感だけで終わらせるにはもったいない素晴らしい作品です。
何かを掴み取って僕のものにしたい。口に出して言うのはとても軽いもので、実際に上手く形にできないからもがき、苦しいのですが。
僕も今を変えたいと願う人間の1人です。いつかこの世界で胸を張れるように。あるいはとても怖いその1歩を踏み出すために。日々を生きていこうと思います。
4.0 TrymenT LasT ProjecT
ちょっと感情的になった記事を1度冷ますように。本当の最後にOmegA編にも期待していますよという感想を。
前置きに書いたとおり僕はこの『TrymenT』が初プレイで、前作『Re:LieF』や大元の同人作品『トレイメント』はプレイしていません。
それでもこの作品達は他のいわゆるエロゲギャルゲと呼ばれる作品とは雰囲気が違うなとなんとなく感じとっていて、とても挑戦的な作品だと思います。
始まったものがいよいよ終わろうとしていて。わざわざ同人時代のキャラクター、キーワードを7年後の作品に引っ張ってきてまで表現したいことがクリエイターの方々にあるんじゃないかと想像できます。
純粋に10年弱かけて積み重ねられた歴史がどんな終わりを迎えるのか楽しみです。
今回僕が書きたかったことは以上になります。
随分と恥ずかしい文章を書いた気がします……内容も結構間違ったことを言っているのかも。
1つ1つの文章に自分の境遇を投影した感想の書き方ですね。もう少しまとまった文章を書ければと思うのですが、勉強不足。精進。
感想は以上になります。OmegA編、楽しみにしています。
最後まで閲覧ありがとうございました。ノシノシ